南濱墓地 墓石調査 Lブロック
まずは配置図を作成しました。
各列をA~Vとしてそれぞれの墓石に番号をふって A-3 のように区別します。(あ~面倒だなあ)
青い四角は一族墓で、現在も祀られています。他に祀られているのは小数です。
菱形の墓は確かにそのように配置されています。
手前の墓のバランスの悪さを除いて、他の墓は揃っています。
ですが、奥に行くと頭デッカチの墓が増えます。
よーく見ると台座の向きが斜めなのです。そのような墓が並びます。
こちら側にも斜めに置かれた台座が並びます。
L-16 この墓に注目した理由は2つあります。
①竿石がなぜ全体的に黒いのか? もともとは白っぽかったハズ。
どうも砂岩の成分が酸化したのでしょう。火山灰が長い年月に固まるのですから、ありえます。
ただし鉄なら赤くなるので、鉄分ではなさそうです。
②碑文が気になります。
正面 比奈磨知孺人之墓 孺人は夫人を指します。
裏面 孺人者
長谷宰相信政郷女也文政七年(1824) 長谷信政の娘だと
九月廿八日為大町安之纏室 大町安之に嫁ぎ
明治三年三月四日没享年七 74歳で亡くなります。
十四 孝孫安教建之
さて、長谷宰相信政という人物が見つからないのです。幕末から明治初期の初代京都府知事が長谷ながたに宰相信篤でしたが
少なくとも直系先祖には信政はいません。宰相と呼ばれた人も。
大町安教が間違ったのでしょうか?
この墓が建てられたのは多分明治3年、信篤はまだ知事に在職しており混同したはずはないのです。
傍系先祖に信政という人物がいたのでしょう。
L-18 正面 渡邊達子刀自命之墓
裏面 日向介信淑室明治十九年十二月十九
日没享年六十六歳
明治四十二年三月建之
台座 東渡邉
達子が亡くなったのが明治19年、墓が建てられたのが何と明治42年、23年後のことです。
なぜそんなに遅くなったのでしょうか?
右から順に
L-20 正面 菅原信就真霊 どう読むのでしょう? 信就真しずまと読んでみました。
その他は剥落
L-21 正面 雪窓義順童子 上部に仏像の浅彫あり
右側面 ●丙午十二月八日卒
左側面 東
渡邉家 なぜか、東を分かち書きしています。
K-22 正面 菅原信亮墓
右側面 東渡邊
裏面 文政四辛巳年十月廿三日(1821)
台座を45度捻るのは、このVブロックの渡邉だけなのです。どういう理由があるのでしょうか。
L-24 正面 杉田亀尾子之墓 左側面 磯矢頼母藤原可信側室明
治●年丁亥十月旬八没
大町
磯矢 建之
丁亥になるのは明治20年しかありません。
3人(杉田亀尾子・磯矢頼母・藤原可信)の関係がよくわからないのです。
磯矢頼母の娘が藤原(大町)可信の側室になったのか? それならなぜ苗字が杉田なのか?
磯矢頼母だけが検索にヒットし、何と大塩平八郎にかかわります。
磯矢頼母:大坂東町奉行所与力で平八郎の門人。ただし、平八郎に味方したわけではない。(処罰されていない)
大塩の乱は天保8年(1837)なので、その頃に生まれた娘なら明治20年没で50歳くらいになるはず。
杉田姓にした理由はさまざま考えられます。
①可信の苗字が杉田 大町氏の一族ではあるが別姓
②明治時代には側室制が廃止になり、同居していたが杉田姓を名乗った
③磯矢は大塩関係者と見られること上憫に思って杉田に変えさせた
大町・磯矢連名で墓を建てた事情は、あなたも妄想してください。
2016/2/14 訂正
「大阪天満宮史の研究」に記載がありました。
大町15代目安之の娘亀々は磯矢可信へ嫁す
亀々だけでなく大町家と磯矢家は代々の結びつきが読み取れます。
でも疑問は、なぜ大町でなく杉田なのか?
頼母は通称で信が名前だというページもありますが磯矢頼母可信が正しいようです。
L-9 正面 井上満喜女
小谷大炊妓 塔
裏面 井上晃常信経
渡辺常右衛門 造之
この4人の関係もよくわかりません。
大炊妓は女性/男性どちらか? 大炊だけとか大炊介なら明らかに男性なのですが。
もし、男性だとすると、なぜ姓が違う2人を並べて葬るのか?
もし、女性だとするともっと謎は深くなります。
井上信経は満喜女の父なのか何なのでしょう?
なぜ姓がどちらでもない渡辺常右衛門が出てくるのでしょう?
L-13 正面 小谷仲之助霊
裏面 故守約実子
母者故渚 故小谷守約の実子で母は故渚 とあります。
嘉永五壬子年六月朔日卒(1852)
なぜ「実子」とわざわざ書いたのでしょうか。またなぜ母は故渚と。
仲之助が亡くなる前に両方ともすでに亡くなっているのですから。
もし「哀子●●建之」とあれば、ナルホドと思うのですが、それでも「実子」に違和感が残ります。
ウタグリ深い私は、継承問題のニオイを嗅いでしまうのであります。
墓の主仲之助が守約の実子で継承権があり、墓を建てた某にも継承権が
あることを匂わせているのでしょう。